「戦後運動史」考2 |
資料1 向井孝「戦後日本のアナキズム運動--その特質と問題点としての〈アナ連〉」
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編集者にこのテーマを与えられたとき、ぼくの脳裡を三つのおもいがよぎった。
第一は、ほとんどまとまったものとなっていないぼくのアナキズム運動論を、この機会に、若干筋道をたてて考えるチャンスにすることができるのではないか。
第二には、戦後アナキズム運動の問題点を、できるだけざっくばらんに運動の内側から、つまり運動組織内部の問題として、改めて見直すことで、これからの方向に、なにがしかの活力を賦与しうるのではないか。
そして第三には、しかしそのような内容のものを、自分だけでなく第三者や権力の眼にさらすことは、どんなものだろうか━その発表によっておこる、一部仲間からの予測される非難や中傷もさけがたい━とすれば、それを覚悟してまで書く必要があるだろうか━ということだった。
そして実のところ一たんは辞退したにもかかわらず、再度の申し入れで引き受けたということは、ぼく自身いささかの決心があってのことである。それは、きれいごとを一切書かない。運動内部にある、運動であること故の政治的誇張━それはアナキズムがもっとも斥けているものであるにもかかわらず存在する━についてもあからさまにかく。但しあくまで自分個人に即して、ともかくも戦後三十年、ぼくが運動にかかわってきたことでの経験、見聞、見解のみに限定して発言する。そのことにおいてでてくるすべてについて責任をもつ━ということである。
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戦後日本のアナキズム運動は、一九四六年の初めごろから準備され、五月に結成された日本アナキスト連盟(略称アナ連)の成立によって、表面にあらわれるものとなったが、たとえば日本共産党などが、戦後いちはやく名乗りをあげたことに比べると、すでに数段おくれた出発であった。そのことはまた運動として当初からアナ運動の内実的立ちおくれを意味していた、と言えなくはない。
もっとも全国のアナキストたちがこのアナ連一本にまとまったということでは、この国のアナ運動史上かつてない〈特別〉なことであった。
その〈特別なこと〉━アナキストの全国連合━は、多年すべてのアナキストたちが待ち望んでいたものであり、過去に何度か企図されながら、一度も完全に果たされたことがなかったものであった。(わずかに一九二五年、それらしきものとして〈黒色青年連盟〉が存在したが、一年たたずして実質を失った。)
だが今にして思えば、かつてないその〈特別なこと〉は、そこに結集したすべてのアナキストたちの、真に連合を必要とする切実な要求によってつくられたというよりも、むしろ敗戦という激動的状況と周囲の運動の進展にゆりうごかされて━という方がぴったりする。言うならば敗戦を推進力にして、他動的に、至極当然のようにそれは生まれてきたのであった。
だから、準備段階からのごく少数の人達をのぞいて、そのときはせ参じた多くのアナキストたちにとっては、ただともかく集まり、顔を合わせるだけでよく、集まって何をするかは、第二、第三の問題だったのかもしれない。そのように〈運動〉に対して没主体的であるとき、「やれる者がやる━」というアナキズムは、運動として全く態をなさなくなる以外ない。
行動のために集まるのではなく、まず組織してから━という逆立ちのかたちでつくりだされたこの〈特別〉は、当然他の運動から、時間的にも質的にも、立ちおくれざるをえなかった。それは発足後ただちに、アナ連そのものの質に決定的な影響を与えるものであった。
そのことを別の一面から言えば、戦中の運動の空白と長い時間の孤立は、かつて不屈をほこった闘士たちの内部を当然のこととして侵蝕し、変転させるものであった。だから敗戦を契機に、かつてアナキストであったことで集まってきた人達が、再びアナキストとして復活したとしても、その大多数は一時の懐旧にすぎず、やがて戦後経済の動乱の中で、戦中につづく日々の生活の維持に埋没して、運動とも組織とも疎遠になっていった。もちろん言うまでもなく、結成大会に参加したアナキスト達のすべてが、そのようであったということではない。アナ連として組織的に直ちにうごき出すという方向を、ついに生み出すことはできなかったものの、いちはやく立ち上がって、個人的に活動をはじめたアナキストたちの、さまざまな分野での働きは決してすくなくはなかった。そのもっとも個性的な例をあげれば石川三四郎である。
八月十五日、山梨県上野村の疎開先で終戦の詔勅を聞いた石川は、待ち構えていたように十六日、ただちに上京した。敗戦の混乱を千載一遇の機としてとらえ、「ざんげした天皇」をかついで一挙に無政府革命へと結びつけようとしたのである。だが、「天皇をかつぐ」ことは、在京同志たちの強い反対に出遭った。彼が起草した「無政府主義宣言」は見送られて、いたずらに時日が遷延した。そして「革命の機会は去りぬ」━ということになったのだった。
(八月十五日からマッカーサー上陸前後までの、いわゆる無政府状態に近いあの一ヵ月前後の秒きざみのような一時期は、もし〈天皇をかつぐ〉方向で無政府革命がすすめられるとしたらどうなったか━は興味深いロマンチシズムである。いまここでこれを云々するゆとりはないが、石川の戦略では〈天皇制〉の問題はほとんど放置されているにしても、その時の天皇かつぎ出しを主張したことだけをとらえて、単純にいまの視点から時代錯誤と論じ去れる問題ではないことだけは明白である。)
この石川にもみられるようにアナキストたちの個人的な活動は、ほとんど共通項をもたなかったか、あるいは地域的な障害で連繋を力とすることができなかった。そしててんでばらばらのまま━最後まで組織化されることはなかったと言える。それにもまして問題なのは、このことが戦前派だけでなく、そのごにあらわれた戦後派アナキストにも継承されて、運動をほとんど停滞させたということである。
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ところで、戦後アナ運動の人的勢力は、その当初の数年をのぞいて、実質的に百人いや五十人をこえたことはなかった━と言ってよいだろう。
四六年のアナ連結成大会は、懐旧のおもいをこめた戦前の活動家たち二百余人が集まった。だが翌年の大会では百余人、第三回、第四回と人数はへって、京都で開いた第五回大会では三十人あまりであった。
そのような退潮はどうして起こったか。アナ連発足当初、ことさらのさばりでて全国委員に選ばれたものが、一年後の大会には陣営から姿を消している、というような個人の質の悪さは例外としても(━その混入を許容した組織のあいまいさを含めて━)結成時のいささかのはなばなしさは、数的にも質的にもみせかけにすぎなかった。それゆえ、新しい世代の加盟がつぎつぎに現われても、幻想が破れていつしか遠のく、というくりかえしをどのようにもとどめえなかったのである。
一九五〇年十月、連盟の東京地協は分裂し、アナキストクラブが生まれた。個人的な紛争に端を発した一部の問題が、過去にくりかえした運動論をめぐって、感情的な対立となり、それは、ただでさえ小数の勢力が半減する結果をまねいた。
その結果アナ連は一たん解散して、ふたたび新しいアナ連が生まれることになった。が、それはさらに全国連合の実質に遠く、ただ名前のみ連盟を称するアナキストの小グループができたのにすぎなかった。しかも構成員が全国に分散していることで、運動体としての実体をもつくり出すことができなかった。
もちろん内部的には、何度か運動の提起が行なわれ、苦悶にみちた試行もあった。があげくの果てに提起者は、いつも空しい徒労を味わうことで終わった。ただひとつ、組織の存在を自他に証明するものとして、またわずかにアナキズム宣伝をめざすものとして、機関紙の発行が、実力をはるかにこえた努力によって、ひたすら守りつづけられることになった。
戦後アナ連の名によって発行された正規の機関紙をあげると、次の通りになる。
〈週刊平民新聞︱東京〉〈旬刊平民新聞︱広島〉〈旬刊平民新聞︱岡山︱大阪〉〈月刊自由共産新聞︱東京︱飯塚〉〈旬刊平民新聞︱飯塚〉〈月刊クロハタ︱福岡︱東京〉〈月刊自由連合︱東京〉。四六年六月から連盟の解散した六八年末まで、これらの号数は通巻して三六八号に及んだ。だがそれも、アナ連の組織的な発行とは言いながら、仲間総体のうちのさらに少数の、全くひとにぎりというにふさわしい人たちが、自ら進んで負荷した、そのときどきの個人的な犠牲と献身にひたすら支えられてのことだったのである。
このように戦後アナキズム運動を代表するアナ連の実態が、戦後の二十数年間このように少数非力で、卑小なものでしかなかったということは、明治、大正、昭和の三代にかけて、権力に不屈の闘いを挑んだ数多くの歴史をもつ、無政府主義運動というその名に対しても、また運動一般の常識からしても、まさにおどろくべきことだと言えるかもしれない。
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ひるがえって、このようなアナ連の実態を長く固定化させたのは、よかれあしかれその思想とするアナキズムとその運動の特質とふかくからみあっていた。
第一に、戦前戦後を通じて、いわゆるアナキストを自称する人たちの多くにみられる心情主義、それにともなう理論把握の弱さ、理論軽視の風潮である。
戦前派とよばれるアナキストの多くは、かつて〈行動と行為━生き方〉において、まさにアナキストであり、そのことにおいて肉体的にアナキズムをたしかに感得していた。だがそれはつねに〈行動〉━〈生き方〉を土台においている限りであり、それがやむときそのアナキズムは、、心情だけの片足で支えられた━きわめていびつなものとならざるをえなかった。すなわち、昨日まで行動によってむすびつけられていた仲間との連帯感は、しばしば記憶だけに残り、具体性を喪失する。つまり彼は、それ以後アナキストを自称するだけで、〈どのようなアナキズムかを明らかにしない〉ことで、きわめて恣意的かつ自己都合主義的にアナキズムを語る。そしてただ他者のアナキズムを非難し攻撃することで、自己のイズムの正当化を示すことになる。このようにして、彼はアナ連に所属しつつ、または離脱してもその運動の阻害者化する。
第二に、アナキズムは、本来多義的なものであり、そこには正統も異端もない。もし文献だけに頼ってアナキズムを求めようとするならば、多くを読めば読むほどに、そのひろがりのなかで混乱し、途方にくれることになる。そして本による知識を整理し秩序立てるのは自分であり、そのようにして自分のアナキズムをつくり出す以外にアナキズムを把持する方法はないことを知るだろう。
アナキズムを把持する━とは、自己の〈生き方〉そのものをもつ━と言いかえてもよい。〈生き方〉とは、一言で言えば外的な諸規範、抑圧をはねかえすとともに、自己の内部に外的な強制を不要とする自律性を確立すること━である。
〈生き方〉は、厳密にいってひとりひとり相違する。他者の〈生き方〉を認めることから、アナキズムの多義性は普遍化する。そしてさまざまな━一見相矛盾するような個人的主張としてのアナキズムがあるのである。
だが一方、そのようなアナキズムの多義性は、既成の組織観、あるいは運動体のなかでは、到底承認されえないだろう。〈統一と団結〉を何よりの力とするそれは、正統と異端とを区分せざるをえない。そしてアナキストの場合、既成の組織論の影響下では際限なく分裂するか、あるいはほとんど共同の運動がないまま野合することになる。
アナ連の場合、その後者であったことは言うまでもない。そして唯一の共同行動であった機関紙の発行は、その紙面内容において、どの連盟員をもつねに満足させえず、大会のたびに論議のまととならざるをえなかった。そのことは、編集発行関係者を孤立させ、内容をいよいよ貧弱化することで、アナキズム宣伝の力を組織自体で弱めることになったのである。
第三に、アナキズムの多義性は、アナキストと自称するすべての個人を、容易にそれと承認するだろう。その寛容さは、アナ運動の強さである反面、しばしば弱さとして働く。つまり、ひと通りのアナキスト論をのべたてると、ただちにひとかどの理論家としてアナキストの間に通用する。
━ある意味でアナキズムはそのようなさまざまな質の混在をそのままで、運動の強さに転化しうるものだ━とぼくは思う━だがまた心情的なアナキスト一般にある理論的な弱さがひらきなおりとなり、学習や知的作業をないがしろにする傾向を助長するかぎり、生半可な物識り先生や、インテリぶった学生がいたずらに筆舌を弄するだけで、運動者のごとくふるまうのを許すことになるだろう。それは彼らを増長させ、しばしば小党派をつくって、自己の説に同和せぬエコールを弾劾するというコースを歩ませることになる。
そのとき何よりも目ざわりなのはアナ連であり、アナ連はそのようにしてほとんど故なく敵対化されるのである。
第四に、アナ連の内部にあって、その機能を支え、守ることにその活動をかけた事務局やその周辺の仲間たちの問題である。
事務局に代表される彼らは、全国に散財する小数の連盟員に対して、アナ連の維持、そして運営というその一事にかけて、ひたすらにすべてを尽した。もし彼らが単に連盟員であることだけに自己を限定していたならば、あれだけの無償の仕事には、到底たええなかったにちがいない。いいかえれば〈アナキスト個人として〉アナ連の維持を己れに課したことにおいて彼らは連盟員であった。そのことにおいて彼らは、実態のないアナ連の実態をつくり、小さなアナキズム運動の火をとにもかくにも維持しつづけた。
それはまた同じように、アナ連に所属することに絶望せず、終始アナ連を外部に名乗って、しかも組織の一片の支えもなく、ただひたすら己れ自身の闘いを、単身で闘いつづけた少数的孤立の仲間たちに対しても、言いうることだろう。
実に、どのような状況変化があり、アナ連組織の変革がすすめられようとも、その一時期、いまここで名をあげて数えうるほどの少数の人たちの、一貫した━あるいはバトンタッチしながらの━献身的な努力がなかったならば、アナキズム運動としてのアナ連はとうてい存続しなかったにちがいないと断言できる。
しかしまた、皮肉にもそのことが、アナ連を発展させることとならず、長く少数で非力な実態を固定させるという、きわめて根底的なアナキズムのジレンマを━それゆえにまた問題を解く焦点を━示唆しているのである。
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一九六六年十月、国際反戦デーを間近にした十九日、ベトナム反戦直接行動委を名乗る十人のアナキストたちが、東京田無にある日本特殊金属に侵入し、動力室電源スイッチを破壊するなどして生産を一時ストップさせるという、兵器工場攻撃事件がおこった。
行為そのものは家宅不法侵入、器物損壊であり、いわば片々たる小事件ともいうべきものであったが、それはがぜん日本中をわきたたせ、とくに軍需兵器生産工場と、それにもましてベトナム反戦を唱える新旧左翼を震撼させた。
そのことを暴力、テロとした当時のごうごうたる一般的非難、わけて日共の悪罵にもかかわらず、いまあまりにも明白となっていることは、その一事によって、ベトナム反戦の新しい地平、直接行動による闘いの方向がきりひらかれ、その後に続々とあらわれた諸闘争の先駆となった、ということである。
ところで、この行動に立ち上がった十人の青年たち━それをバックアップした者たち━そのなかに、のち東アジア反日武装戦線を名乗って企業爆破を敢行したS君がいた━をふくめての組織〈ベトナム反戦直接行動委〉は、アナ連から派生したというより、むしろその周辺から独自の方向をもってあらわれてきた! と言うべきものだった。
「アナキズムは行動によるプロパガンダである」というとき、このことはきわめて根本的な━組織の問題━わけてアナ連の意味を照らし出すものである。
さて戦後の三十数年を通じて、アナキズム運動は、〈社会的〉に何ほどのことをしたか━と問われたならば、ただ一つのこと━このベトナム反戦直接行動委の事件をのぞけば、ほとんど社会的舞台への登場はなかった━というより仕方がないだろう。
そして、強いてアナキズム運動の有無にこだわるならば、アナ連の組織内部での、外からは全くみえない活動を数えあげるか、または全国各地に孤立して散在したアナ連盟員の、ほとんど個人的な日常活動を語る以外にないだろう。それらはいずれにしても〈社会的〉には何ほどのこともなく、むしろ私的・個人的営為として、ひたすらに行なわれた。それゆえにまた、その結果はほとんど語るに足らず、眼にみえぬもののつみ重ねであるにすぎなかった。
いうならば戦後アナキズム運動のほとんどは、個人としてアナキストたちが、その行為を互いに脈絡させることなしにそのときどきを動きつづけた、その小さなさざなみの不可視の集積としてあったということである。
このことが意味するところのものは、戦後のすべての時期を通じて━アナキズム運動は、きわめて小数の個人によって、意図するとされぬにかかわらずむしろ私的に行なわれることで、人知れず━見えない地下水脈をつくりつづけた━という結果である。そしてまた、たまたま運動が社会的それゆえ組織的なものとしてあらわれたときは、たとえば〈ベ反委〉のごとく、それそのものの行動組織としてであった。それをしいて関連づけるならば━組織的なアナ運動をめざしながら━皮肉にもそれを実現することのなかったアナ連の周辺から派生するかたちにおいて具体化した━ということである。
敗戦直後から、六五年前後に至るおよそ二十年間、この国における意識的な、それゆえアナキズム運動をめざすアナキストは、ごく一部の例外をのぞいて、アナ連あるいはアナキストクラブのいずれかに属する者以外に存在せず、その総計は五十人を越えるかこえないかであった。(クラブの運動について、ぼくはほとんどタッチしえなかったのでここで言及しないことを許して頂きたい)。
そして、この二十年間におけるアナ連の存続の意味は、すでにのべたように大きなジレンマとして存在した、という以外にない。すなわち、アナキズム運動の拡大発展をひたすら目途としながら、それを果しえぬことにおいて、むしろ障害をつくり出したこと。しかしその反面では、周囲の状況がすべて萎靡沈滞して、ほとんど消滅しようとする時、それは唯一のとりでとなり、アナ連を守ること、またはアナ連に所属することが、頑固な少数のものにとって個的な活動のよりどころとなったということである。
だが、沈滞時にはわずかに意味をもちえたとしても、運動の上昇、昂揚期においては、むしろその存在意味を喪失する以上に阻害物となる━とするならば、アナ連が本来目的とするアナキストの運動体ということでの組織維持の理由は━とくに六五年以降から次第に失われていったと言ってよいだろう。
そしてこの重いジレンマを担いつつアナ連とそれに属するアナキストは、ようやく高まってきたアナキズムへの注目と関心の風潮をむかえて、機関紙の購読者のわずかな増減に悲喜しつつ、講演会、シンポジュウムの数的な小さな成功、大学等におけるいくつかのアナ研の発足や独自のグループの出現という現象のなかで、自らの手でのアナ連解体へと一歩一歩近づくことになるのである。
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一九六八年十一月、愛知県でひらかれたアナ連第十八回大会は、二十数名の参加のもとで二日にわたる論議のすえ、アナ連組織解散の決議を全員一致で行なった。六九年、七〇年の闘いの昂揚を前にしてその前夜ともいうべき時期にあえて行なわれたこの決議は周辺の人たちにとってあまりにも突然で納得しかねたことであったかもしれない。
ところでこのアナ連最終の大会で、解散を提案したのは関西地協であったが、ぼくの提起からはじまったものであった。はじめ個人の文書という形で、八月の終わりごろ各地に送られ、討議が行なわれていたのである。
その提案趣旨は、およそ次の如くだった。
1、連盟の目標は、第一に「全国の散在するアナキストとそのグループの連合をつくること」、第二に「幸徳秋水以来の伝統と経験を批判的に継承し、アナ運動発展の中心となること」。━だが連盟の実体はその目標に近づくどころか、いまなおはるか遠い地点にある。
2、戦後二十数年間、運動は個人の熱意とその努力によってのみ行なわれ、組織としてやりえたことは機関紙の定期発行だけであった。
3、が、ここ数年間にアナ連をとりまく周囲の状況は、大きく変転した。思わぬところからアナキズムを名乗るグループが生まれ、それぞれが小さな活動をはじめようとしている。
4、このような時、その実態をもたないのにアナ連が連合を名乗っている━ということは、かえって真の連合の創出を阻む以外のものではない。
5、とすればアナ連が自ら解体することによって、他の諸グループと同一比重のものとなり、そのうえで真の全国連合を共同の歩調でつくり出す方向こそが求められねばならない。
6、そのことはまたアナ連を運動体としての真の実体をとりもどさせることともなる。いま自分たちの手で、まずアナ連を解体することこそ、新しい発展への第一歩である。━
この提案に対して、とくに戦前派の仲間たちは、過去の経験に照らして、連盟の存在の意味がどのように大きく、貴重なものであるか、たとえ名目だけであっても残すべきことを主張してやまなかった。そして第二は、解散後のそれぞれの方針、機関紙自由連合廃刊に代わる、アナキズム宣伝紙の独立的な刊行などが申し合わされて、ようやく全員一致、連盟解散を決議するということになった。
それにしても二十数年間の歴史をもち、なお強い愛着によってその構成員に支持されている組織が、さらに状況的に運動の昂揚期をむかえようとしているとき、自らの手でその組織を解体する━というようなことは、一般的には容易に考えられうべくもない、稀有の変異であったにちがいない。
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一九六九年一月一日号の〈自由連合〉紙は、日本アナキスト連盟の解散を告げ、一四七号をもって終刊した。
これを最後にアナ連は完全に解体し、連盟員はその拠りどころを失うことによって、自らを運動体として組織する立場を迫られることになった。
そして、東京と京阪神では新しいグループづくりの動きがはじまった。
ぼく自身のことで言うならば、東京の仲間がまずつくった〈麦社〉に加盟したが、それはほとんど友誼関係以上のものではなかったので、やはり自分で活動をつくり出す必要を感じた。
麦社は当初、新聞を出す予定だった。それがパンフ出版へと転換したので、ぼくは、それに代わってという意味でなく、ぼくなりの新聞を出そうと決心した。
こうして〈姫路〉自由連合社が生まれ、第一号自由連合が六九年三月発行された。紙名はアナ連当時と同じだったが、内容は一変した。アナキストを含む無党派市民・学生の、そのときどきの運動状況を、そのまま反映して、それゆえまさに六九年七〇年闘争の特質の、ある層を表現するものとなった。
そして三年余、ようやく七〇年闘争が終わろうとする七二年八月、四十号で廃刊を宣言し、自連社つぶしを自らやり出したとき、確実に前金を払っている社員千余と、それをふくめて千六百余の読者名簿をもつ、それゆえおそらく戦後で最も大きい数の、アナ系組織となっていた。(ちなみに、アナ連当時の機関紙は、七百人の読者名簿をもっていたが、確実に紙代を払うものは三百前後であった。)八月から十月まで、大阪のアジトで行なわれた〈自連つぶしワークキャンプ〉は、たとえば一ヵ月間で、のべ三百人、実数で五十余人が全国から参加して、その廃刊の思想的運動的意味にかかわる事務処理を行なったのである。
* * *
それから四年を経た現在、アナキズムをめぐる運動の状況は、さらに一変二変している。
総体として諸運動の下降沈滞する状況のなかで、アナ運動━それゆえにアナキストを自覚する者が、果たしてどう増減したかは確定しがたい。が、おそらく全国で三百を越えることはない━とぼくには思われる。その限りでは、アナキストの絶対的少数という事情は、ほとんど変わっていず、アナ運動の進展もまた一向にないままだ━と言えるかもしれない。
だがまた東西を通じて歴史的過去のいついかなるときも、アナキズムの勢力は、まるっきり大したものでなかったことは明らかである。
たとえば、バクーニンはあるとき、リヨンに三千人のアナキストがいると言ったが、彼はそれを最高至上の数としてかぞえたのであった。三九年のスペイン革命において、アナキストが最大勢力を占めていたとき、二百万の労働組合CNTを影響下においたイベリア・アナキスト連盟FAIは、実に五百にたらぬ連盟員が、CNTのなかで活動していたにすぎなかった━と言われている。
このように、アナキズム運動の量としての特徴は、その運動が拡大発展したときもアナキストそのものは、依然として少数であった。ただ他の運動組織と異なるところは、その運動の周辺や、まったく関連のないところにも同調者たちがあらわれ、また名乗らずどこにも所属しないアナキストが存在し、簇出する━というところにある。
このようななかで、いまぼくにたしかに見えてきたものがある。
一昨年以来、旧アナ連と関係のない新しい世代と層からアナキストの〈全国連合〉結成のうごきがおこっている。が、それはまだどのように運動体を構築すべきかを論じて難航し、組織の思想の具体化について、そのイメージをつくりかねている。
だが、過去の歴史を批判的に継承し、その経験を活かすというならば、アナ運動にとって〈全国連合〉、アナ連組織は、どのようでなければならぬか━は、ほぼ明らかであろう。すなわち先ず、アナキスト個人およびその小グループ━より正しく具体的に言えば、それらを基盤にしてつくられた、一定の明確な目的をもつ行動組織━の行動によって、アナ運動は推進され、発展する、ということの運動論的確認である。
そのとき、アナキズムの多義性━それゆえに各人各グループ各様の主張と行動、その行動組織にあらわれる━表現方法の相違と相克は、過去しばしば自己の正統性の主張と他の異端化というセクト主義を、アナキストといえどもまぬがれえなかったことを銘記すべきだろう。
とするならば、アナキストの全国連合〈アナ連〉をつくり出す真の意味は、もはや明らかといわねばならない。それは第一に、アナ連の〈運動体的活動についての消極的な限定〉である。第二に、アナ連加盟の個人、グループとその周辺にあるすべての運動が、自己だけでなく他の活動をもアナ運動の普遍的綜合総体として━それゆえに自己の運動の力として━見出すこと、そのための相互にセクト的な孤立と妨害的対立状況の調整、その機能のための自由連合である。
このようにしてはじめてアナ運動は、多くの人々の個別的課題を自己の課題としてアナ連総体のなかで表現しつつ、現代社会の変革を具体化するものとなる、と言わねばならない。
だがまだそれを日本的にも世界的にもアナキストたちは、かつてつくりあげなかったことにおいて、アナキズムの思想とその特質を〈革命〉化しえないまま、いつも立ちおくれてきた━とみずからで言う以外にないのである。
(『思想の科学』一九七六年十月臨時増刊号)